1974年、小学生だった11歳のころに芸能界入りした曾我泰久(そが・やすひさ)さん。その日から40数年、大手芸能事務所所属時代に「ヤッちん」という愛称で親しまれ、アイドル・ユニットやバンドメンバーとしてメジャー・デビューを果たし、音楽活動以外にも多方面で活躍しました。そして1990年にソロ・アーティストとしての活動をスタート。同時に俳優活動を継続しながら30年が過ぎました。 この連載は、曾我さんの「現在・過去・未来」を思いっきり語っていただくインタヴュー・シリーズ。どんな時も自分らしくあり続けるアーティスト、曾我泰久さんの魅力に迫ります。
2022年4月、このインタヴュー記事をまとめている最中にビッグニュースが舞い込んできました。20代の曾我さんが全力で取り組んでいたバンド、「The Good-Bye(ザ・グッバイ)」の過去のアルバムが再プレスされ、タワーレコードで発売中とのことです。
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第4回となる今回のインタヴューは、曾我さんのヒストリーに触れる内容。デビューから10代のころを振り返っていただきました。
Interview & 取材・文:饒波貴子
写真提供:イクセルエンターテイメント
曾我泰久 作品 Spotify
芸能界入りは「フィンガー5」がきっかけ!?
●3月に開催した「芸能生活48周年記念 LIVE ! LIVE ! LIVE ! 」。素晴らしいプレイヤー、そうる透さん(ドラム)・田川ヒロアキさん(ギター)・宮野和也さん(ベース)・野津永恒さん(キーボード)の演奏で、周年記念にふさわしいステキなライヴでした。曾我さんが楽しそう、うれしそうに見えました。
曾我泰久 「自分のお祝いごとなのに、みなさんに集まっていただけるのは幸せです。目の前にお客さまがいて、声が出せなくてもスタンディングで応援してもらえるようになり、コロナ禍以前のライヴに近付いてきたと感じうれしかったです。バンドで音を出す楽しさもありました。本当にすごいメンバーでしたからね」
●会場のお客さま、配信で視聴する方。たくさんの観客がいましたが、配信があると意識は変わりますか?
曾我 「会場だけのライヴはその場のみなさまとのエネルギーで、わ〜っと盛り上がります。配信は会場にいるよりは冷静に見るでしょうしリピート視聴もできるので、その場限りではないですよね。しっかりやらなくちゃ、と考える自分がどこかにいる気がします」
●オープニング曲が人生観感じる「Go ahead Again!」で、さわやかに始まりましたね。
曾我 「意思表示ではないですが、まだ夢を追いかけていくぞという気持ちで一曲目にしました。セットリストの前半は、割と48周年の思いを込めましたね。自分が芸能界に入ったきっかけを改めて音で表現したかったので、フィンガー5の曲をバンドバージョンで入れたりしました」
●アーティスト曾我泰久を誕生させたフィンガー5! 偉大な存在だと思いました。
曾我 「偉大ですよ! 1960年代前半生まれの僕ら世代はどんぴしゃり。社会現象になったほどの人気で曲が素晴らしかった。多くのカバー曲を歌っていて洋楽要素が強かったんです。今まで聞いてきた歌謡曲とはちょっと違うなと、子どもながらに感じました。僕の音楽のルーツというか基礎になるものを作ってくれたのは、フィンガー5だと思っています」
●1970年にメジャーデビューしたフィンガー5は、沖縄出身の兄妹5人組。曲が好きだったということですか?
曾我 「メインボーカルの晃くんみたいに歌いたくて、マネしたかったんですよね。2歳年上の姉貴が買ったファーストアルバムを聞いていましたが、メッセンジャーズの『気になる女の子』やマイケル・ジャクソンの『ベンのテーマ』など洋楽のカバーが多かったです。当時の僕はカバーという言葉すら知らずフィンガー5の曲と思って聞いていましたが、洋楽への入り口にもなりました。完成度の高い曲がたくさんあったと思っています」
●マネをしていたくらい大好きなフィンガー5。芸能界入りして会う機会があったでしょうが、うれしかったですか?
曾我 「めちゃめちゃうれしかったですよ! 僕がデビューしたころはテレビ局で結構一緒になることがあって、仲良くしてもらっていました。大人になって2006年の『Dear Friend』ライヴに晃くんがゲスト出演してくれて、いきなり客席から妙ちゃんも出てきてビックリしたことがあります。リンリンリリン〜って晃くんと僕が始めて、妙ちゃんも加わり『恋のダイヤル6700』を3人で歌って最高でした。僕にとって2人はアイドルでしたからね」
ステージデビューは郷ひろみさんと
●フィンガー5が芸能界入りのきっかけになったとのことでした。子どものころから歌が好き!? 歌が上手いと言われていましたか?
曾我 「小学生のころ『黒ネコのタンゴ』(1969年リリース)という歌が流行っていて、よく歌っていました。地域の鼓笛隊の練習中に居合わせて、『君、黒ネコのタンゴ歌える?』とたまたま聞かれたんです。聞いてきたのは多分音楽の先生だったと思うんですが、『歌えます』と答えたところ鼓笛隊の演奏をバックに僕が舞台の真ん中で歌うことになったんですよ。小学校低学年の頃で、人前で歌ったのはそれが初めてかもしれません」
●先生は曾我さんが歌が上手と知っていて、歌えるかどうか確認したということですよね。音楽の授業で歌ってと指名されたり、親戚の前で歌って褒められたとか、何かエピソードはありますか?
曾我 「あまり覚えていませんが小学生の時は音楽の時間が大好きで、合唱する時はメインのポジションに選ばれていました。縦笛は学年で一番でしたよ。褒められると調子に乗るタイプなので(笑)、褒められる内にもっと上手くなりたいと思っていったはずです」
●そういう小学生時代を過ごす中、お姉さんがオーディション参加を勧めたんでしたね。
曾我 「音楽バラエティー『プラチナゴールデンショー』というテレビ番組でジャニーズ・ジュニアを募集していたので、受けてみればと言われました。姉貴は番組に出演していた、郷ひろみさんのファンだったんです。当時の僕はオーディションというのが何かも知らず、クラブ活動みたいな感じかな!? 体操が好きだから運動ができるクラブだといいな、と思っていたんですよ。そしてオーディション当日になり会場に行くと、参加者が数百人!? 本当にたくさん来ていたと思うんですけど、数十人ずつ部屋の中に案内されたんです。審査員の中にフォーリーブスさん、郷ひろみさんもいました。歌える人と聞かれて手を挙げたらそのグループでは僕だけで、1人でアカペラでフィンガー5の『ベンのテーマ』を歌いました。結果的に最終の10人に残ることができましたが、年齢的にオーディションは不合格。でもジャニー喜多川さんが歌声を気に入ってくれたみたいで、『僕が面倒を見るから』と言ってくださいました」
●「面倒を見る」と言われた日から、ジャニーズ事務所入りということになりますか?
曾我 「そうです、1974年3月3日でした。当時のジャニーズジュニアはブルーのブレザーが制服で、すぐに事務所に行って寸法を測りました。11歳ですごいチビだった僕は最年少。前例がなかったくらい幼くて、みんなにかわいがってもらった記憶があります。家族にヤッちんと呼ばれていて、事務所での呼び名にもなりました」
●事務所入りしたあとは、すぐにグループ分けなどされましたか?
曾我 「1人ずつ見ながら、ジャニーさんはいろいろ考えるんでしょうね。僕はオーディション後、すぐに郷ひろみさんの春のコンサートツアーに連れて行ってもらいました。1カ月も経たないうちにステージに立ち、ひろみさんと『ベンのテーマ』をデュエットしたんです。なんとなくですが、舞台袖の空気とかスモークマシーンの匂いを覚えています。緊張は全くしなかったので、楽しくて仕方なかったはず(笑)。舞台に出てスポットライトを浴びて『こんな世界があるんだ!』とうれしくて、ここが自分の居場所なんだという感覚になっていったと思います」
●華々しいステージデビューですね! 普通の小学生が数週間後に郷ひろみさんデュエットとはすごい。当時の思い出はありますか?
曾我 「ひろみさんが何かしら気にかけてくれて、かわいがってもらったことを覚えています。カッコいいと憧れていましたが、年齢が離れていることもあり自分とは世界が違う人という気持ちで見ていたかも。ステージで数千人を前にひろみさんと一緒に歌って、拍手を浴びたのが小学5年生の春休み。翌月の4月に6年生になって、NHKの番組『レッツゴーヤング』にレギュラー出演するようになりました。ジャニーさんには日本語カバーではなくオリジナル曲を聴きなさいとよく言われていて、ジャクソン5(The Jackson Five)やオールマン・ブラザース・バンド(The Allman Brothers Band)たちのビデオを見て歌も聴いていました」
●テレビにもすぐに出演して夢の世界。芸能活動のスタートからそういう感じで学校にも行って・・・どんな生活だったんですか?
曾我 「よく早退していました。クラブ活動の延長みたいな感覚もあったんだけど、週に一回『レッツゴーヤング』に出演して、テレビ東京の『歌え!ヤンヤン!』にもレギュラー出演が決定。いきなり世界が変わったんですよ」
●すごい! アイドル活動が突然始まったのですね。「リトルリーブス」というグループのころですか?
曾我 「そうです。『レッツゴーヤング』出演時には、ジャニーさんがフォーリーブスの弟分のようなグループ、リトルリーブスを作って僕はそこに入りました。3人組で歌って踊ってフォーリーブスのまねをして、みたいなグループでしたね。当時のフォーリーブスは、大人気のアイドルでした」
●目標にしていた先輩でしたか?
曾我 「憧れる気持ちはありました。フォーリーブスのコンサートにはよく連れて行ってもらっていましたが、セットリストはシングル曲はもちろんありますが、半分以上が洋楽でカッコよかったんです。当時アイドルと呼ばれていた人たちは、コンサートで洋楽のカバーを英語のまま歌うことが多かった記憶です。参加させてもらった郷ひろみさんのコンサートツアーでは、ひろみさんがカーペンターズ (The Carpenters)の『SUPERSTAR』を歌っていたなと覚えています」
●小学生のころに芸能活動をはじめ、だんだん忙しくなっていったんでしょうね。クラブ活動の延長ではなく、仕事意識が強まりましたか?
曾我 「中学一年生だった1975年、『リトル・ギャング』という2人組でメジャーデビューしたころが、一番忙しかったです。でも過去も今も、”お仕事だ!”と思ったことはあまりないかもしれません!?」
●数年前、スタイリスティックス(The Stylistics)とステージ共演した子どもの頃の写真をSNSにアップしていましたね。スタイリスティックスといえば、70年代アメリカのブラックミュージックの人気グループ。華やかで楽しい毎日だったのではないですか?
曾我 「スタイリスティックスは大好きなグループで、レコードをよく聴いていたので会えてうれしかったです。でも合宿所にいる時は、鏡に向かって踊りの練習して音楽を聴き洋楽のビデオを見て・・・そんな感じでした」
●ダンスや歌のレッスン、厳しかった記憶はありますか?
曾我 「ダンスの基礎は、西野バレエ団に毎週通って習っていました。歌の先生はいなかったので独学。青山孝さんと八田英士さんが当時の僕の憧れの先輩で、あんな風に歌えたらいいな〜とマネすることもありました」
●リトル・ギャング以降のことを詳しく教えてください。
曾我 「僕が中学一年生、相棒の松原秀樹くんが中学二年生の時にデビューしたのが、ボーイソプラノ・デュオのリトル・ギャング。フィンガー5のようなポップな曲を、ギャングをイメージした白のスリーピースを着て踊りながら歌っていました。モデルガンも持ってね(笑)。他にも子どもユニットが数組いた頃です。デビューから約半年後、シングル2枚とアルバム1枚を出したあとに松原くんが変声期を迎えたので活動を終えました」
●リトルリーブスから選ばれた2人が、「リトル・ギャング」という名前でデビューしたのですね。年齢的に変声期が近いことは予想がつきますから、リトル・ギャングは声が高い間の短期的なユニットだったんですね。
曾我 「ジャニーさんは、僕のボーイソプラノの声をいろんな人たちに聞いてもらいたい気持ちがあったのではないかな、と思うんですよ。オーディション後すぐに郷ひろみさんのツアーに参加させたのも、そういうことだったんでしょうね。2015年にA.B.C-Zの舞台で音楽を担当することになってジャニーさんと再会した時、『ヤッちんは子どもの時から本当に歌が上手かったんだよ』と彼らに話しているのを聞きました。印象に残っていたんでしょうね」
●ボーイソプラノの美しい声と抜群の歌唱力。貴重な時期にヤッちんの歌を多くの人に届けたい、という思いがあったと想像します。短期間のユニットでしたが、キレイなかわいい声で作品を残したことは素晴らしいですね!
曾我 「そうですね。敷かれたレールに乗っているだけでしたけど(笑)。目標とかこんな風になりたいという思いは僕たちにはなく、言われたことをやっている感覚でした。リトル・ギャングを終えた頃に事務所に川崎麻世くんが入ってきたんですが、彼のデビュー曲を演奏しなさいといきなりジャニーさんに言われたんです。ドラムができる長谷部徹くん、ギターができる大野祥孝くんと合体して『ギャングス』を結成しました」
じゃんけんが決めた音楽人生
●楽器演奏の経験がなかった曾我さんと松原さん。どうやって担当を決めたんですか?
曾我 「じゃんけん(笑)。ギターがやりたいって二人で大げんかして、お互い譲らない。ベースという楽器は地味に見えましたからね。三回勝負で決めようと松原くんが言ってじゃんけんしたら、僕の勝ち! 本当にそうやって決めたんです」
●じゃんけんが、その後の音楽人生を導いたのですね。今や松原秀樹さんは日本を代表するベーシスト! 曾我さんは芸歴48年を迎えたアーティストに! 突然楽器をやることになり、受け入れて挑戦したこともすごいです。
曾我 「言われたことはやらないと、というだけですよ。ジャニーさんが決めたことを言われた通りにやっていました。やりたいことがあったら、例えばドラマに出たいなど自分から希望を伝えた時は叶えてもらっていましたね」
●担当楽器が決まったギャングスは、どんな活動をしていましたか?
曾我 「当時大人気だったキッス(KISS)のコピーバンドみたいな感じでしたね。好きなバンドでしたし、ギターのフレーズがコピーしやすかったんです。テレビ番組で披露することはありましたが、ライヴするほどのレパートリーはありませんでした」
●ギターを弾くミュージシャン曾我泰久は、そのころ誕生したのですね。
曾我 「そうです。でも独学でやっていたので全然上達しなかった。当時ギターがすごく上手な伊藤栄悟くんという人がいて、彼がコーチのような存在として加入しました。同時期に別の事務所で芸能活動していた柴谷英樹くんもヴォーカルとして入り、バンドの底上げを図ったんですね。そのメンバーで1980年に『ANKH(アンク)』を結成しました」
●大人っぽい雰囲気で本格派バンドの印象がありましたが、どういう感覚でしたか?
曾我 「アイドル路線ではなくて本格派のイメージが強い、フォーライフ・レコードというレーベルから作品をリリースしました。なのでバンド色を強く出していたと思うんですけど、実際は与えられた曲を必死に練習してこなしていたんじゃないかな、という記憶です。個人的にはこの頃にオリジナル曲を手がけるようになり、ギターが上達していった時期だったと思っています。ただメンバーの音楽性がバラバラだったので、自発的にこういう曲がやりたいとかみんなで曲を作ろうということにはならなかったですね。ライヴではシングルやアルバム曲、そして浜田省吾さんや洋楽のカバーを披露していました。松原くんと長谷部くんは当時流行っていたフュージョン志向で、柴谷くんはハードロックが好きで、僕はポール・マッカートニーから入ってビートルズに影響を受けていた頃でした」
●でもギターを弾いていると楽しいとか、バンドっていいなと思ったりはしませんでしたか? やらされている感が強かったのでしょうか?
曾我 「正直、そんなに楽しくなかったですね。オリジナル曲を作りたい気持ちにはなっていましたが、アンク時代は模索していた気がします。その頃は役者になりたい思いが強くて、メインキャストで初めて出演した『俺んちものがたり!』の時は、新しい経験ばかりで本当に楽しかったです。『ぼくらの時代』も『茜さんのお弁当』も出演作全ての現場が楽しくて、出番がなくてもずっとスタジオにいましたし、勉強になると思い共演者の演技を観察していました。役者になるとはっきり宣言もしていましたよ。とはいえギターは続けていて、田原俊彦くんのバックで演奏していた頃もありました」
●人気ドラマに出演していたのは、素晴らしい実績だといえますね。「ピエロ」という曲では曾我さんと松原さんが演奏しながら前に出て、田原さんと並ぶ場面があったことを覚えています。1980年代、後輩だった「たのきんトリオ」のブームはどんな風に見ていましたか?
曾我 「急展開でただただビックリ! 合宿所でよく遊んでいたメンバーがある日突然大スターになり、歴史が変わる瞬間を見たというんでしょうか。いきなりセンセーショナルな出来事になっていて、何が起きたんだろうという感覚でしたよ」
●曾我さん自身は俳優活動をメインに考えながら、ギターを独学で続け曲を作っていきたいというヴィジョンを描いていたんでしょうか?
曾我 「流れに乗ったままだったと思います。目の前に来たらあれをやってこれもやって、という感じでしたよね。11歳で芸能界に入って歩んできた道は、今思えば全部ジャニーさんが敷いたレールの上を歩いていただけ。自主性を持つのは、The Good-Bye(ザ・グッバイ)結成の20歳になってからでしょうね。大人になるということだったのかな、と受け止めています」
●ザ・グッバイの活動期は、ぼぼバンドオンリーになりましたね。もっと俳優活動を続けたかったですか?
曾我 「アンクの時、バンドはもういいや〜と結構思っていました。なので野村義男くんのバンドに入ってとジャニーさんに言われ、最初は断ったんです。”じゃ〜ヨッちゃんの面倒だけでも”と強くお願いされたのでデビューするまで、ということで引き受けました。まだ名前のないヨッちゃんバンドのメンバー探しをはじめ、いろんなことがありましたがスケジュールが迫ってきて、そばにいた僕を含めなし崩し的に4人でデビューすることが決まっていったんです。最後まで拒否していた僕ですが、年間3本のドラマ出演を条件にザ・グッバイに加入しました。それがジャニーさんとの約束だったんですよ」
●3本のドラマはどうなったのか・・・という続きから、ザ・グッバイ時代については次回お伺いします(笑)。20歳という多感で吸収できる時期、曾我さんの大きな転機ですね。
曾我 「タイミングだったんでしょうね。運命ですよね」
●今回は48年前のデビュー当時から20歳前までを振り返っていただきましたが、よく覚えていらっしゃいますね。最後に近況を教えてください。
曾我 「過去曲をリマスター+リミックスしたアルバム、『SONG(S) COLLECTION Vol.3』を先日リリースしました。最近僕を知ってくれた方もいらっしゃいますし、久しぶりに僕の曲を聞きたいと思ってくれた方も多いのですが、廃盤になったCDは入手できない。なのでこのシリーズ3枚をそろえてもらうことで、ほとんど網羅できると思うんです。今回はボーナストラックでザ・グッバイの『Lonely Night』も収録しました。野村義男くんがヴォーカルの曲を僕がカバーしたので、楽しんでいただけると思います。そしてリミックス曲が数曲あり、以前聞いた方も新鮮な感覚で聞いていただけるアルバムに仕上げています」
RELEASE INFORMATION
曾我泰久『SONG(S) COLLECTION Vol.3』
リミックス含めリマスタリングした17曲を収録した、ベスト盤第3弾(3,000円)。
「Lonely Night」アコースティックギター弾き語りヴァージョンを新録。
各ライヴ会場、公式オンラインショップで販売中!
【公式ショップ スターライトオンライン】
http://excel-ace.shop-pro.jp/?pid=168515912
LIVE INFORMATION
【無観客生配信トーク&ライヴ】
曾我泰久 music life live ~ 憂鬱な梅雨を吹っ飛ばせ!スペシャル
視聴するみなさまとコミュニケーションを図る普段着のライヴ。 曾我本人からの質問に事前に答えていただき曲のリクエストも受け付けて、当日は配信中のコメント参加もお待ちしています。 みなさまのリクエストにどこまで応えられるのか!? 今回はゲストに「sources」のピアノ、野津永恆さんを迎えます。
【日程】2022年6月6日(月)
【時間】20:00 START(約2時間予定)
【料金】視聴チケット 4,000円(税込) ※6/13までご購入およびアーカイブ視聴可能
【曾我泰久ツイキャスアカウント】https://twitcasting.tv/sogastaff
【視聴チケット購入サイト】 https://twitcasting.tv/sogastaff/shopcart/154717
曾我泰久 music life live TOUR
2022年 6月 18日(土) 会場:東京・原宿 La Donna (ラドンナ)
2022年6月19日(日) 会場:神奈川・横浜 thumbs up(サムズ・アップ)
https://www.stovesyokohama.com/thumbsup/
2022年6月25日(土) 会場:千葉・柏 Studio WUU(スタジオ・ウー)
掲載日:2022年6月4日