──ここからはアルバムの収録作品についてお伺いします。まず一曲目の「wonderful summer」ですが、大瀧詠一さんのナイアガラ・サウンドに影響を受けたとのことですが?
黒沢 「実は自分のために作った曲ではないんですよ。昔から知っているディレクターがいまして、某アイドルのコンペ用※に曲を書いてくれないか? と頼まれたことがきっかけなんですね。普段、この手の仕事は受けないことが多いんですけど、お世話になった方であったのと、なんでもいいから一番好きな物をと言われたのでそれがきっかけ作ったんです」
※主にJ-POPなどで、ある決まったお題で楽曲を公募するシステム。通常複数の作曲家に依頼することが多く、一回のコンペで数十曲から多い場合は数百曲・数千曲を集め、その中からリリース曲を決める。採用側としては基本的に無料で楽曲を集めることができるメリットがある一方で、制作者側は採用されなければタダ働きとなるのがデメリット。ただし無名の新人でもベテランと同じフィールドで勝負できるのと採用されればそれが実績となり、以後名指しで指名されるようになるきっかけにもなる。
──最近アイドルブームもあってか、コンペティション形式での仕事が増えていると聞いたことがあります。
黒沢 「そうですね。これは余談なんですけど、最近はよくわからない内容のコンペがあまりにも多いんです。“コンペをやるから曲を集めます…以上終了”みたいなね。その後どうなったのか連絡すら来ないものもあるんですね。プロに頼むだけ頼んでおいて何もしないという、仕事の仕方として失礼じゃないかなと思わざるをえない人もたくさんいるんですよ。まあそれを引き受ける若いミュージシャンがたくさんいるから成り立ってはしまうと思うんですけど…そういう仕事はもうやめようかなと思って。指名で話があってこういう曲を作ってほしいから黒沢さんにお願いします、という仕事の発注であれば、僕は確実にやれる自信がありますし、納得がいくまで提案もできるんですけどね」
──他のミュージシャンからも似たような話を聞いたことがあります。指名で一緒にやりたいと言ってくれる方のほうがやりがいがあると。
黒沢 「その通りですね。でもせっかくの機会だったので、これまでやろうと思ってやれなかったことにチャレンジしたいと思ったんですよ。それがロングバケーション、和製フィル・スペクターサウンドのようなアプローチだったんです。若いころに何回もトライしたことがあるんですけど、全然うまくいかなかったんです。それともう一つきっかけがあって。僕がお世話になっている若いスタッフがいるんです。音楽が大好きでライヴもたくさん行く20代の方なんですけど、その子に大瀧詠一さんの話をしたら、“大瀧詠一って誰ですか?”と言われたんです(笑)」
──もうそういう世代なんですね…。
黒沢 「“ついに来た!”と…その子は本当に音楽が好きな子なんだけれども、そんな人でも大瀧さんを知らないという事実に衝撃を受けまして…こういう音楽は若い人には聴かれていないんだろうなと思ったんです。そこでアレンジャーの冨田謙さんに“一度プレゼン用として、黒沢秀樹を忘れて一緒にチャレンジしてもらえませんか?”と言って作ったんです。L⇔R時代にやっていたことともアプローチが違っていて…宅録レベルではどうしても辿り着けないサウンドだったんですよね。ただ、アレンジやプロデュースの仕事もするようになって得た経験がある今だからこそ作れたんじゃないかと思います。確かコーラスが12本、ベースも2本、ドラムも2人、ギターもアコギだけで6本くらい入っているんですよ」
──そこまでたくさんの音が入っていたことには気づきませんでした。
黒沢 「本当はモノにしたいと思ってモノラル・ミックスまで作ったんです(笑)。そうしたらやり過ぎだと言われて(笑)」
──確かにやり過ぎ感はありますけど(笑)、好きな人にはたまらないでしょうし、いつかリリースしてください。
黒沢 「そうですね、いつか出したいですよね(笑)」
──三曲目の「Endless Harmony」は三年前に千葉のQVCマリンフィールドで行われたザ・ビーチ・ボーイズの来日公演がきっかけになったそうですね。
黒沢 「これは先に曲ができていて別の歌詞がのっていたんですけど、配信でお世話になっているMajixレーベルの畝本さんから“なんかイマイチじゃない?”と言われたんです(笑)。畝本さんから“最近なんか楽しいことなかったの?”と聞かれて、“ビーチ・ボーイズのライヴが盛り上がってすごく楽しかった”と話したら、“そういうことを曲にしたらいいんだよ”と言われて、“俺はビーチ・ボーイズが好きだ!“という曲に作り直したんです」
──ザ・ビーチ・ボーイズのどこがお好きですか?
黒沢 「それは難しいなあ。ビーチ・ボーイズとビートルズって僕にとってあまりにも近すぎて客観視できないというか。いわば白いご飯のどこが美味しいですか? と聞かれているようなものなので(笑)…あえて挙げるとしたらものすごくシンプルなところと、ものすごく複雑なものが同居しているところ、聴いたときにメンタルとフィジカルの両方にグッとくるところが魅力ですね。”ただ音楽を聴くだけの快感”というのがあるじゃないですか? 例えばハーモニーが波のように押し寄せてきて気持ちいい! と思うフィジカルな感覚と、歌詞や演奏の一つ一つの音がよく考えられているところとかね。何回聴いてもいいなと思えるんですよね」
──六曲目にある「恋のスパイス」は、これまでの黒沢さんの曲とは大分傾向が違いますよね。遊び心を感じました。
黒沢 「全く違いますよね(笑)。これは黒沢秀樹というアーティストを完全に捨ててできた僕の中の妄想なんです。日本の古いヒットポップスで、外国の曲を日本語に翻訳して出すというのがあったんです。漣健児さん※とかね。当時の感じを今の時代にやってみたらどうなるんだろう? と恥ずかしいぐらいわかりやすい曲を作ってみたいなと思ったんです。それと僕は大阪の『旧ヤム邸』というカレー屋さんでよくライヴをやるんですが、そこのカレーに衝撃を受けたんです、カレーじゃないんですよ、スパイス料理なんです。そのお店で何回かライヴをやらせてもらっていくうちに『スパイス』を歌詞に入れたくなったんです。だから僕の中では、“1950年代から60年代初頭のアメリカの三人組ガールズグループが歌った[Spice Of Love]という曲があって、それを日本人の歌手が1963年くらいにカヴァーしてあまりヒットしなかった曲を俺がやり直した”という妄想のストーリーがあります(笑)」
※漣健児(さざなみ けんじ)はシンコーミュージックの元会長である草野昌一が訳詞家として活動する際に使用していたペンネーム。1960年頃に当時の洋楽、アメリカン・ポップスを独自の解釈で400曲以上も日本語化した。代表曲に「ステキなタイミング」や「赤鼻のトナカイ」などがある。
──面白いですね。身近な日常生活から曲を作る人が多い中で、過去の歴史を引用しながら遊び心を持って作るというのは興味深いですし引出しの広さを感じます。
──ところで「青空のように」「恋のスパイス」「Blue flowers -青のない国-」の三曲には岡井大二さんがドラムに参加されています。
黒沢 「岡井さんにはこのところセッションに参加してもらっているんですよね。いろんなことがあったんです。[青空のように]は根岸孝旨さんの作曲で、人の曲を自分名義で歌うのは実はこれがはじめてだったんです。根岸さんと僕とウルフルズのサンコンjr.で遊びのバンドをやっていて、ライヴの話があったときに各自がオリジナル曲を持ち寄ったことがあったんです。その時に聴いた根岸さんのこの曲がすごくいい曲で、最初は英語の歌詞がついていたんですね。その後根岸さんも僕もよく知っている昔のスタッフが急に他界しまして、彼への追悼の意味をこめて僕が日本語の歌詞をつけたんです。昔のマネージャーなんですよ…いつかまた一緒にやろうねとよく言っていたんです。でももう会えなくなってしまって…。根岸さんとも岡井さんともまたいつか一緒にやろうねと言っていたんですが、そんなこともあってやるなら今しかないと思ったんです。いつかいつかと思っていたらできなくなってしまうと。それで今回参加してもらったんですが、やっぱり天才でしたね(笑)」
──そして「僕らの未来」なんですが。
黒沢 「MCでもよく話しているのですが、iPhoneなどスマホの登場で世の中本当に便利になったんです。電車に乗るとみんなスマホを見ているじゃないですか? その光景がすごいなと思ったんです。ツイッターやフェイスブックで簡単につながれますしね。それに音楽制作の現場も、ものすごく便利になっているんです。でも、今日の取材もそうですけど、人と直接会って得られる情報量って半端ないんですよね、やっぱり。どんなにラインやフェイスブックでやりとりをしても、そこには圧倒的な違いがあるなと思って。だからどんなに便利な世の中になっても、その先にあるのは人と人じゃないのかなという気持ちを、ジャクソン・ブラウンのような感じで(笑)歌えたらいいなと思ったんです」
──僕はこの歌を聴いたとき、タイトルもそうですけど、とても前向きな歌で、秀樹さんの代表曲になるのではないかと思ったんです。これまでの秀樹さんの歌詞を見ていると、内省的な側面が強くにじみ出ていて自分に自信がないのではと感じることが多かったんですよ。例えば今日ここにお持ちした前作のアルバム『Believe』の歌詞を広げてみると、否定形の言葉がたくさん使われているんですね。“~でない、信じたくない”といったようにですね。
黒沢 「うん、そうですね」
──今回のアルバムの歌詞を前作と比較すると全く違うように感じました。この十数年の間、黒沢さんに何があったのかお伺いしたかったんです。
黒沢 「多分、当時は人をあんまり信用していなかったんでしょうね(笑)。今だから言えるんですけど、他人を信じられるようになったのって、ほんとここ数年じゃないかなと思うんですよ。振り返ってみると根本的に人間というのは他人を信じることができないんじゃないかと思っていたくらいで(笑)」
──それは小さいころからですか?
黒沢 「うーん、そうでもなくて…なんなんでしょうね(笑)。こういう仕事をしていると、みんなコロコロ手のひらを返したりするんですよ。だから他人を信用できなくなりやすいんですよね。でもそういうものが人間だから仕方ないとも思うし、自分だってそういうところがないわけではないし…ただ、ここ数年全国各地で弾き語りライヴをやるようになって、色々な人に直接会って話をする機会が増えて、やっぱり会って話すと全然イメージが違ったりするんですよね。そういうことを積み重ねていくうちに、自分の間口も広がっていったんだと思います。音楽が広がっていく背景には、多くの人間が関わっていることを改めて実感もしたし。レコードの世界に閉じこもっていた自分を、外の世界に引っ張ってくれた気がするんですよ、お客さんや友達がね。やっぱり人の力なんでしょうね。そうやっていつのまにかポジティブになってきたんだと思います」