黒沢 「前作の『Believe』のときは、それまでの反動がすごかったんですよ」
──確かL⇔R活動休止後、最初にリリースされたアルバムですよね。
黒沢 「そう、僕はこれをロック・アルバムにしたかったんですよね。それまでのキャッチーなポップスから一転した部分を見せたかったんですよ」
──と言いますと?
黒沢 「僕は、音楽には光と影の両方が必要だと思っているんです。どんなにハッピーな歌を歌っていても、それが人の心に響く瞬間というのはその向こう側に影の部分も感じるからだと思うんです。そういう音楽を聴いて育ってきたから、どうしてもその先にあるブルースを見せないと偽物に見えてしまう気がして。それが良きにせよ悪きにせよあることが、アーティストとしての僕のキャラクターだと割り切ることができるようになったんです。だから書けたんでしょうね」
──その向こう側というのは?
黒沢 「例えば”ビートルズってどういう人たちだったんだろう?”と探っていくとリヴァプールという港町に生まれていて、労働者階級の家で…決して幸せとは言えない環境から出てきたバンドで、ハンブルグ時代の音を聴くとものすごく荒くれたロックバンドだったりするわけですよね。でも僕が最初に観たのはスーツを着たかっこいいビートルズなんですよ。そういう情報をインプットしてから聴くとまた違って聞こえてくるんですよね。”ビートルズではレノン=マッカートニーが大体の曲を書いているのに、ゴフィン=キングって名前がレコードに出てきたらそれは何だろう?”と思いますよね。音源を聴いた当時は探しようがなかったんだけど、後日それがアメリカのグループの曲だったとわかったときに、”アメリカで生まれた曲を何故イギリスのビートルズがアレンジしてカヴァーしているんだろう?”とまた疑問を持って考えるんですよ。そうすると曲がレコーディングされたときのことや、本人たちがどんな気持ちで歌っていたのか…うっすらとだけど理解できるようになってくるんですよね。これを繰り返していくうちに、自分の中でその曲のストーリーを勝手に作ってしまうんです。そうすると歌がもっと自分の中に入ってくるようになるんですよ」
──歌の背景や状況が見えてきたとき、曲がスッと入ってくる瞬間は確かにあります。
黒沢 「音楽の聴き方って人それぞれだと思うんですけど、僕は背景なども踏まえた聴き方をしてきたんですね。そしてゴフィン=キングを調べていくうちに今度は70年代のキャロル・キングやジェームズ・テイラーを聴くようになってまた衝撃を受けたりもするんです。キャロル・キングは若いころ作家として成功していたのに、なんでシンガーソングライターになったんだろう? とかね。するとそこにはベトナム戦争の背景があったりするわけで。みんなロサンゼルスに行って、ロサンゼルスからニューヨークに行ってというミュージシャンのシーンの推移もあったりね。世界が目まぐるしく変わっていく状況が、一枚のレコードや一曲の中から感じられるんですよ。それが感じられるってことは曲の中にそういう要素が入っているわけですよね。だから追体験したくなるような気持ちになるわけで。曲にその良さや面白さや深みみたいなものがあって、“あ、そういうことか!”と符合する瞬間が音楽の楽しみ、アーティストを追いかける楽しみでもあるので。だからリスナーの方がインタヴューを読んで僕の音楽を再度聴きなおしたときに、“あ、そういうことか!”となってくれたら嬉しいですよね」
──それでは続けて「心の橋」を作られたときのことを教えてください。
黒沢 「ちょうど震災があったころなんです。世間が“みんな頑張りましょう”とか“絆を大切に”とか言っていたころなんですけれど、僕の実家も被災地でそれどころじゃなかったんですね。そこに大変なことがたくさん重なって…音楽を続けていけるのかどうか…ギリギリの状況になっちゃったんです。そこで恩師というか、話を聞いてくれそうな人に、これからどうすればいいのか相談に行ったんですよ。そうしたら、“お前は歌も歌えるしギターも弾ける。曲も作れるしアレンジもできるしエンジニアもできるんだからギター1本持って頑張ってみろと。周りにはそんなやつがたくさんいるんだから、お前にも必ずできるからやってみろ”とアドバイスをもらったんです。
──すごくいい方ですね。
黒沢 「そうなんです。そしてちょうどそのタイミングでMajixのプロデューサー畝本さんと再会したんです。Majixはプラットフォームを作ったばかりで、そこでやる人を探していたんですよね。相談をしたらうちで録ればいいじゃん、と言ってくれて、系列の下北沢風知空知もうちでライヴをやったらいいよ、ということになったんです。いろんなものが再スタートできた、全部仕切り直すことができたときに生まれたのが[心の橋]だったんです。現在の黒沢秀樹はこの歌からスタートしているということですね。だから黒須さんがおっしゃったように前の作品とは何かが変わった気がする、というのはまさにその通りで…大袈裟に行ったら一回死んだんです(笑)。そして生まれ変わった現在があるんですよね」
──ボーナストラックの「焼いた魚の晩ごはん」についてはいかがですか?
黒沢 「以前一緒に事務所をシェアしていた音楽プロデューサーの藤沢さんという方がいらっしゃって、その方が三浦半島に移住したんですよ。それで藤沢さんのところに遊びにいった折に、彼が面倒を見ることになった『かもめ児童合唱団』を観に行ったんです。歴史がある合唱団なんですが、いわゆる普通の合唱団とは少し違ったんです。みんな一生懸命歌うんだけれども、あまり上手ではなくてね(笑)。大人から“こう歌わなければ駄目だ”と言われて歌っている子たちと全然違っていて、自由にのびのびと歌っているんですよ。でもその一生懸命な姿がいいなと思ったんです。しばらくして藤沢さんからかもめのCDを作るという話を聞いて、そのころuncle-jamでもお世話になっていたから、日ごろのお礼にと曲を書いて持って行ったんですよ。そこに藤沢さんが詞をつけてできたのがこの歌で、結果的にそのCDのタイトル曲にもなったんです。藤沢さん自らが手がけていることもあってアレンジャーなども豪華で、完全に児童合唱団の枠を超えたものになりました(笑)」
──プロのミュージシャンが作った合唱団のCDというのも大変豪華ですね。
黒沢 「そうなんですよ。そしてセルフ・カヴァーの際にはレコーディングし直して自分で歌ったんですけど、聴いてもらえばわかるように、かもめ児童合唱団の声も録音させてもらって、それがまたいい感じになりました。しかもこの曲には一つ伝説があってね。下北沢の仲間のbarで夜中の二時過ぎに友達と飲んでいたんです。そのときに合唱団の話をしながら[焼いた魚の晩ごはん]をかけたんですよ。そうしたらお店にいた全員が号泣しちゃって(笑)、あの瞬間にお店にガチャっと入ってきた人は、誰か死んだんじゃないかと思ったでしょうね…夜中に酒を飲みながら聴くとヤバイらしいです(笑)」
──今回のリリースに向けてデザイナーやフォトグラファーとのチームが出来たと伺いましたが、その点について詳しく教えてください。
黒沢 「メンバーとの付き合いは二年から三年くらいになりますね。彼らはもともとプロとしていろんな仕事をしている人たちなんです。アートディレクターの幸野紘子さんは雑誌の編集の他、自分のアパレルブランドを持っていたり、女優もやっていたりしてセンスがとてもいい。デザイナーの三宅彩さんは飲み仲間なんだけど、これまでCDジャケットをたくさん手掛けている会社で働いていた方でジャケットワークに長けているんですよね。そして彼らがスタイリストやフォトグラファーを連れてきてくれてチームができたんです。予算も時間も限られている中、みんながやりたいって言ってくれたので本当にありがたいです。そしてイラストレーターの塩井浩平さんも。先ほども話に出たここ数年のシングルCDのジャケットや、今回のアルバム中面でのイラストは彼の作品です。ツアーグッズのトートバッグも幸野さんの企画で塩井さんにイラストを描いてもらい、マネージャーの知人の会社でカスタムメイドしました。これが大好評で、CDより人気があります(笑)」
──会場限定で販売されていたCDジャケットはファンからも好評でしたよね。そして今回結成されたチームでのアートワークについてなんですが。
黒沢 「さっきもあった”色”というキーワードを踏まえて、打ち合わせの段階ではフィルターをかけたようなイメージを出したいと話していたんです。これはスタジオで撮ってもらったんですけど、実はアナログ的な手法で撮っているんですよね。普通なら写真を撮ったあとにデジタルで色のフィルターをかけると思うんですけど、今回はあえてカメラの前にカラーフィルムを置いて撮ったんです。そうしないとこの自然な柔らかさを出せないんですね。これはアートワークチームの成せる技ですね」
──少しうつむいた加減などの構図も、秀樹さんの特徴をうまく捉えていると感じました。
黒沢 「それはみんな僕のことをよく知っているからだと思うんです。一緒に飲みに行っている仲間でもあるから、どうしたらいいのかわかるんでしょうね。ジャケットについては今更この年で写真もないんじゃないかという話もあったんだけど、フォトグラファーの吉岡真理さんがすごくのってくれていい写真をたくさん撮ってくれたんですよね。
──偶然なのですが、最近若手からベテランまでバンド活動におけるチームについてのお話をあちこちで聞くことがありまして。色んなバンドさんにお話しを伺って きた中で、作品をリリースするときにいいチーム、プロジェクトを作って活動できているバンドとそうでないバンドでは、やっぱり大きな違いがあると感じていたんですよ。バンドメンバーだけでまわしているところもありますが、なかなか難しいみたいで。
黒沢 「そうですね。CDを出すということになると様々なクリエイティヴが入ってくるじゃないですか? 僕、これまでに本当に色々な方々とお仕事をさせていただいたんですけれども、僕らぐらいの年になってしまうと、いなくなっているか、大御所になっているかのどちらかなんですよ(笑)。昔一緒にやっていた人 たちで今も残っている方々は大ベテランになっているわけですから、気安く仕事を頼むわけにもいかないんですよね。それこそレコード会社が潤っていた時代の 制作費と比べたら今では予算も限られているわけです。もちろん頼んだらやってくれるかもしれませんが、それだと互いに気負ってしまう部分もあるでしょうし ね。今回は自分のことをよく知っていてくれて、自分の状況もわかってくれている人たちと一緒にチームを組んでやれたことがとてもいいなと思っているんで す。それとプロデュースの仕事を始めてから、音楽制作については自分の周りにありとあらゆる対応ができる体制を作り上げてきたんですよね。”こういうサウンドだったら彼だな”、”こういう音作りがしたければこのスタジオだな”、とプロデュースに必要なところはほぼ何でも対応できるところまでは持ってきたんです。今回アートワークのチームが出来て、あとは宣伝や営業まで含めたチーム編成ができたら、もっと強固なものにできるんじゃないかなとは思います」