──最近の活動についてお伺いしたいのですが、ここ数年ギターを持って全国を周られるようになられましたよね? 以前もそのような活動はされていたのですか?
黒沢 「いや、全くなかったですね」
──全国周られていかがでした?
黒沢 「よくも悪くも“現実”、“リアル感”がありました。これまでと違ってCDや媒体などを介さないじゃないですか? それでも来てくれるお客さんがいるってことと、その人たちは僕の音楽をすごくよく聴いてくれること、それが嬉しかったんですよ。何年も待ってましたとか、すごく遠くから来てくれる方もいて…そういうことがあったという話を周囲のミュージシャンから聞くのと、実際に目の前でそれを体験するのでは重みが違ったんですよ」
──これまでも、それこそデビューしたL⇔Rの時代から全国各地でライヴをやられていたじゃないですか? 規模の差はあるにしてもライヴという行為は同じなわけですが…。
黒沢 「確かに、ライヴをするという“行為”は同じですね。でも猛烈に違うんですよ。今は自分の意志で行こうと思ってライヴをするんですよね。昔は自分たちの知らないところでいつの間にかツアーが決まっていたということも多かったんです(笑)。もちろんステージの上で音楽をやるという情熱は、昔も今も変わらないんですけどね。それと多分お客さんも昔と今では、音楽の受け取り方が違うと思うんです。自分たちもそうですし。特に僕はギタリストで、一人で一本のギターを持って自分の歌を歌うということがなかったから、それは新鮮でしたね。ギター1本持って歌うリアルさというのがね」
──お客さんとのコミュニケーションについても変化はありました?
黒沢 「ファンの方との距離がめちゃくちゃ近くなりましたよね。昔はお客さんのことがよくわからなかったんです。お客さんは僕のことをすごく知っているじゃないですか? ラジオや雑誌などで知ってくれているんですね。でも僕はそのお客さんと会って話したことがないんですよ。何も知らなかったわけです。だから昔はそのギャップがかなりあったんですけど、今は目の前にいて、一人一人見たらどんな人たちかわかるから嬉しいですよね。それとこれは僕の音楽に対する向き合い方の問題もあったのかもしれませんが…」
──と言いますと?
黒沢 「普通、バンドやるのって女の子にモテたいとかそういう気持ちで始めるじゃないですか? でも僕、全くそういうことには興味がなかったんです。ただひたすらスタジオに籠って機材をいじっているようなタイプだったんです。要はいいレコードさえ作れたらそれでよかったんですよね。だから握手する予定はなかったし、サインって何? て感じだったんですよ(笑)」
──確かもともとエンジニア志望だったんですよね?
黒沢 「そうなんですよ、エンジニアの学校にも通っていましたしね」
──もしかして人前に出るのは苦手なタイプだったんですか?
黒沢 「今でも苦手ですよ(笑)」
──そうなると何故バンドでデビューすることになったんですか(笑)
黒沢 「あるとき兄のバンドのギターが病気で倒れて、”ブッキングが入っているからお前来い!”とライヴハウスに拉致されたのが最初だったんです(笑)。高校生のころかな。それで兄と一緒にバンドをやるようになったんですが、そのバンドはデビューできずに結局解散したんです」
──それがL⇔Rの前身バンドとなるラギーズですか?
黒沢 「いや、確か違って別のバンド名だった気がするな。それで兄弟二人だけ残ってどうしようかねなんて話していたんです。そのときに木下はアマチュアなのに川崎クラブチッタを満員にするようなバンドでベースを弾いていて、大学生だったんだけど、セッションミュージシャンのようなこともやっていたんです。彼はよく僕らのライヴに来てくれていて、“どうしても一緒にやりたい”と言ってくれていたんです。その後木下は保険会社に就職して立派にサラリーマンをしていたんですけど、あるときテニスで骨を折ったらしくて(笑)…療養中暇だから毎週末松葉杖でうちに遊びに来るようになったんです。そうこうしてたらあるとき“スタジオとったから来い”と言ってきて(笑)。スタジオとられたらそりゃ行くしかないじゃないですか(笑)? それから一緒にやりはじめたんですよね。でも僕ら兄弟はデビューできなかったし、ちょうどそのころポール・マッカートニーの初来日ライヴもあったから、ポールを見たら実家に帰ろうなんて言っていたんです(笑)。そうしたら偶然岡井さんから電話がかかってきて、“お前ら今何してるんだ?”と聞かれたので“ポールを見て実家に帰ろうと思っています”なんて話したら、“とにかくデモテープ送ってくれ”と言われて…その後それが当時ポリスターの牧村憲一さんの耳に入ったんですよ。他のレコード会社からはこんなマニアックな音楽売れるわけがないと散々言われたんですけれど、牧村さんだけは真逆のことを言ったんです。あのタイミングで大二さんから電話がなかったら、今はなかったでしょうね」
──振りかえってみて90年代はどのような時代でしたか?
黒沢 「僕らがデビューした時期は、“音楽をたくさん知っていることがかっこいい“という時代だったと思うんです。渋谷系と言われていましたけど、僕らはどちらかというと西新宿系で(笑)。渋谷系以前に西新宿のレコード屋で探していましたから。お洒落とか関係なくて、ただの音楽マニアだったんですよね。渋谷系の人たちがバイブルとするようなレコードは既にほぼ全部聴いて持っていましたし。だからセールで買っていたレコードが、渋谷のあるレコードショップで何万円もしたり、これを持っているのがカッコイイ、なんて書いてあるのを見て、俺たち時代を先取りしていたよな、なんて思っていたくらいで(笑)。色んな意味でもう一回温故知新みたいなことがちゃんと評価されて、再発されるCDもたくさんあったから音楽業界がよかった時代だったんでしょうね」
──メジャーで学ばれたことなどありましたら。
黒沢 「あの時代を過ごせてすごくよかったのは、レコード芸術の世界をきちんと体感できたことだと思うんです。僕らの世代が最後なんじゃないかと思うんですよね。プロツールスが出てきて以降は、大きな録音スタジオがどんどん潰れていっているんですよ。大箱と呼ばれているところはほとんど残っていないんです。ある一部のアーティストにしか使われないようになってしまった。でも僕らはスタジオ育ちの人間なので、”今はライヴの時代だよ、CDなんて誰も聴かないよ、物販だよ!“なんて言われても、やっぱり音や録音の仕方にすごくこだわってしまうんです。それが例えばMajixのような小さいスタジオでもできるようになったのは機材の進化のおかげもあるんですけれど、結局音楽の作り方、音の作り方を知っているかどうか、ということだと思うんです。僕らの世代はホンモノをたくさん見てきているんですね。どういうアンプを使って、どこにマイクを立てて、どんな機材を使ったらどんな音が録れるのかを知っているんです。コンピューター上でデジタルに再現しているものって、もともとリアルにあったものじゃないですか? デジタル上でどれだけアナログに近づけられるのかというようなこともやっているし。そうなったときにホンモノの音を知っているのは大きな財産になるんじゃないかと思うんです。最近の若いエンジニアは、最初からデジタルでやっているから、それがなかった以前に起きていたマジック、間違ってここにマイクを立てたら実はすごくいい音で録れてしまった、といったような経験をしたことがないと思うんです。でも過去に名盤と呼ばれたものの多くはそういった経験からできていたりもするんですよね」
──一連の活動の起点となった2012年最初の下北沢風知空知のワンマンライヴで、L⇔Rの「恋のタンブリングダウン」を披露されましたよね。L⇔Rの曲をソロで歌われたのは、何かしらの心境の変化があったからだと思ったんです。過去へのわだかまりはないのでしょうか?
黒沢 「この一連の活動を始めるにあたって何人かの人に相談したんですけれども、その中の一人から、“役に立たないこだわりは捨てろ”と言われたんです(笑)。“要は自分のためだけのこだわりは捨てなさいと、芸人なんだからお客さんから求められることをやりなさい”という意味だったんですよね。L⇔Rのお客さんは僕にとっても最初のお客さんで、僕がファンだったらどう思うだろう? と常に考え続けていたんですよ。仮に僕が作った曲であってもL⇔Rの曲は三人揃ってこそのL⇔Rの曲だと僕は思っていたんです。やっぱりそれを僕の曲だからといって僕がひとりでやったら、もし自分がファンだったらがっかりするだろうなと、正直それはずっと思っていたんですよ。僕がひとりでL⇔Rの曲をやることはファンに対して、お客さんに対しての裏切り行為になるんじゃないかと。でもある日テレビをつけたら、兄貴が全然知らない人たちと[Knockin’ on your door]をやっていたんですよね(笑)。それを見て少し考えてしまったんですよ。そして兄がライヴでL⇔R時代の曲を歌っていると聞いたこともあって、それも”あり”なのかなと思い始めたんです。自分の作った曲を自分で歌うだけだし、それよりもお客さんが聴きたいと思ってくれているんだったらいいんじゃないかなと思えるようになったんです。もしかしたら僕がこだわりすぎていただけかもしれないし、お客さんが喜んでくれるんだったらいくらでもやりたいなとも思ったんです。そういう意味では吹っ切れたというのがありますね」
──以前健一さんに取材させていただいたときも同じようなことを話していたんですよね。それで今は歌われるようになりましたね。先日もセルフカヴァーアルバムをリリースされていますしね。
黒沢 「だったらL⇔Rやったらいいのにね(笑)」
──いや、僕にそれを言われても(笑)。でも皆さん来年デビュー25周年なんですよ。
黒沢 「あ、そうなの・・・そっかそうだよね。91年デビューだもんな」
──そうなんですよ。20周年のときに何かあるかなと思っていたけど何もなかったんですよね(笑)。
黒沢 「うーん、そのことになると答えがないんだよね(笑)」
──まあそれはそうですよね。
黒沢 「でも俺がやりたくないって言っているわけじゃないからね。なんかみんな俺が嫌だと思っているらしいんだけど、そこは違うから(笑)」
──わかりました(笑)。それでは、最後にリスナーやファンの方へのメッセージをお願いいたします。
黒沢 「ありがとうございますとしか言いようがないです。本当に感謝しています、それしかないですね。これからもよろしくお願いいたします」
──本日はありがとうございました。
日時:2015年8月7日(金) open 18:30/start 19:00
会場:東京・青山月見ル君想フ
出演:黒沢秀樹(バンドセット)
料金:前売 3500円/当日 4000円(共に+1drink)
予約:http://www.moonromantic.com(〜8月5日(水)24:00迄)
電話予約:月見ル君想フ 03-5474-8115
詳細はオフィシャルサイトをご確認ください。
黒沢秀樹 プロフィール
1970年8月28日生まれ。1991年、L⇔R のギタリストとしてミニアルバム「L」でデビュー。1993年、第一回服部良一音楽賞受賞。1995年にはシングル「Knockin’ On Your Door」がオリコンチャート1位を獲得。13枚のシングル、7枚のアルバムを発表。1997年のL⇔R活動休止後、ソロ活動を開始。1999年にソロアルバ ムと同名シングル「Believe」を発表、以降3枚のミニアルバムをリリース。有里知花、遠藤久美子、石野田奈津代、sowansong、かもめ児童合唱団、にこいちなどへのプロデュースや楽曲提供をはじめ、ギタ リスト、コンポーザーとしても幅広く活動。2010年より伊藤銀次とのユニット「uncle-jam」を始 動し、2013年にはミニアルバム「uncle-jam」をリリース。2012年より配信シングル「心の橋」をリリースし単独アコースティックライブをスタート。東京でのワンマンライブの度にシングルを継続リリース中。音楽誌などへの執筆、ラジオ出演なども多数。
関連リンク
twitterアカウント @HidekiKurosawa
掲載日:2015年8月5日