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第2回石田ショーキチ presents デビュー20周年特別企画 “FURTHER ALONG 20th anniversary TALK”!!

石田「スパイラル・ライフでは、60年代感で新しいロックにトライするということを意識的にやっていた」

あず 「ちょうど20年前の話が出てきたので、いったんリ・ミックス盤から離れて、デビュー当時のお話を少しお伺いしたいのですが・・・健一さんのビデオでも出ていたんですけど、健一さんから問いかけがあったじゃないですか? 20年前の当時は何をやっているか意識的じゃなかった気がするんだけど、どう思う? という・・・」

 

石田 「こういうとアレですけど、僕は結構、意識的でしたよ。純君もちょっとさっき触れていましたけど、60年代感みたいなものを自分はすごくテーマにしてたんですよね。モッズ系だとコレクターズなどが既にいらっしゃいましたけど、思いっきりビートルズだったり、思いっきりホリーズとか・・・美しいメロディをベタベタっと出しながらそれを新しいロックのかたちにトライしているバンドってなかったので、その風穴を狙おうという意識は、僕と車谷君にはありました」

 

あず 「当時いわゆる渋谷系と呼ばれるシーンが、フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴなどを中心にあって、WitsのレーベルメイトであるL⇔Rがいて・・・という状況の中で、どういうポジションを狙っていくかというところで、60年代70年代のサウンドを意識的に出していったんでしょうか?」

 

石田 「そうですね。必ずしも懐古主義というわけではないんですが、まだ80年代の名残が残っていた90年代初頭の中で、60年代から70年代からポピュラーミュージックの歴史を全部内包しているかたちで、音楽的なインテリジェンスの濃さを持ちながら、新しいロックを聴かせるという・・・そういうことをやりたいなという意識でしたね」

 

あず 「ちょうど93年という時代は、その翌年の94年にL⇔Rがオリコンで1位になったり、スピッツがブレイクし始めたり、あるいは小林武史さんのプロデュースで洋楽をフィーチャーした音というのがだんだん表に出てきたという、時代の変わり目だったと思うんですけど、そういう中でわりとハマっていったというのを、実際やられていた中で感じたところはありましたか?」

 

石田 「うーん・・・いわゆるマーケットリサーチ的な意味では、そういうのは考えていなかったですね。とにかく自分の出したい音を出すことを考えてました」

佐々木良 「スパイラル・ライフは、初めて触れたお洒落な音楽という感じでした」

あず 「当時リスナーとして聴いていた佐々木さんにとって、スパイラル・ライフの印象はいかがですか?」

 

佐々木 「そうですね、僕はBAKUから来た流れで・・・専門用語で“BAKU流れ”って言うらしいんですけど(笑)・・・BAKU流れのファンだったので、そんなには意識してなかったんです・・・それこそ、車谷さんが、BAKUのイメージを払拭しようとしていることなんかも、あまり考えていませんでした。どちらが作詞して、どちらが作曲して、というのも、共通の作家名(「Freaks of Go Go Spectators」のクレジット)だったので、意識せずに・・・ただ、20年前、僕はまだ高校2年生だったんですが、全然深く考えずに聴いていても、とにかく衝撃でしたね、かっこいいなっていう・・・だから、スパイラル・ライフは、初めて触れたお洒落な音楽という感じでした。スパイラル・ライフと同じ日にコーネリアスも同じポリスターからデビューしていましたが、渋谷系みたいなムーヴメントにも憧れました」

 

あず 「藤井さんにも当時の音楽シーンの状況も含めてお伺いしたのですが・・・そもそもどういう経緯で藤井さんがスパイラル・ライフをプロデュースすることになったんですか?」

 

藤井 「スパイラル・ライフの所属のレコード会社のポリスターから電話がかかってきて、デモテープが送られてきたんです。それがすごくよくて、ぜひやりたい! と言って。93年の春に会ったんですよね。車谷と石田と牧村さんと俺の4人で会って。俺こんなの好きなんだよねって渡したのが、マシュー・スイートとかプライマル・スクリームとか、そのあたりのカセットかMDかで渡して。こんなの好き? って聞いたら”俺たちも好きですよ”って言われて。話合わせてもらってのかもしれないけど(笑)」

 

石田 「いやいや、本当に好きでしたよ(笑)!!」

 

藤井 「(笑)。まあ、それで始まったんですよ。牧村さんのことはよく知っていたんですが、僕は元々、80年代にYMOのアシスタントをしていたり、サザンオールスターズのプロデュースをしたり、布袋さんのプロデュースをしたりっていう流れがあったんですね。だから、サザンみたいなポップスとか、ギター・バンドサウンドとか、YMOのテクノとか、それらの音楽のエッセンスがうまくバランスよく入っている人だなと牧村さんに思われていて、それで頼まれたんじゃないかなと」

 

石田 「そうですね。多分、牧村さんの肝いりとして、僕らに自分たちでレコード作れるようになれっていうのがあって、その監督・コーチとして、最初に藤井さんのところに弟子入りしてこいみたいな、そういうニュアンスで藤井さんをお招きして、ファーストアルバムを作ったんだと思うんです」

 

藤井 「鍛えられたかどうかは分からないけどね(笑)。まあ、次のマキシ・シングルからはセルフ・プロデュースになったんだけど、デビュー・アルバムのレコーディングの後、二人で伸びていったのが大きかったよね。石田は自分で打ち込みをはじめたし、車谷はソングライティングを伸ばしたし。元々石田は、車も自分で作るし、釣竿も自分で作るタイプじゃない(笑)。何でも自分でやるっていう。20周年記念盤も自分で作っちゃったからね(笑)。まあそういう体質なので、どんどん伸びていってしまったっていうね」

 

佐々木 「もともと車谷さんは元のバンドのBAKUでメインコンポーザーとしてやっていたじゃないですか? そこで新たにスパイラル・ライフを始めるにあたって、ショーキチさんの曲でファーストアルバム全部いくっていうことに対して、変な主張みたいなものはなく、シンプルにいい曲だから石田さんの曲でいこう、みたいな感じだったんですか?」

 

石田 「特に話し合いがあったわけでもなくて、クルが僕の作風を気に入ってくれて一緒にやろうって話になったってことですね。自分の作風と違う作曲ができて、かつ、例えば打ち込みができたりとか、アレンジができたりとか、そういう相棒が欲しかったんだろうと思います」

 

藤井 「これは想像なんだけど、やっぱり、バンドを解散するってすごいヘビーなことだから、一回車谷自身はコンポーズということを止めて、歌を歌おうというところだったんじゃないかな? それが1枚アルバムを作ったら、やっぱり自分も曲を作ろうってなったんじゃない。1枚アルバムを出して、ある意味、みそぎが終わったんじゃないかな、車谷の中で」

藤井「2,30年前のものを、主流に対するアンチとして誰かがすごくお洒落に再構築して作り出す流れっていうのは、時代の中で変わっていかないことなのかなあと」

あず 「当時L⇔Rやスパイラル・ライフがWitsというレーベルで色々と活動していて、黒須さんはL⇔Rを同時期に聞かれていたということなんですけど、当時のL⇔RであるとかWits界隈、ポリスター界隈の捉え方ってどういう感じで聴かれていたんですか?」

 

黒須 「最初にリスナーとして入ったときは、渋谷系やWitsというレーベル名こそは知っていたものの、渋谷系だからとかWitsだからとか・・・そういうようなことはあまり意識してなくて、普通にすっと入っていったんですよね。色々な音楽のエッセンスをモチーフにして現在の音としてそれを再構築して音楽にするといった、時代の大きな流れがありましたが、渋谷系やWits界隈もその流れの中の同じような立ち位置で見てました。私もビートルズから音楽聴くようになったくちなので、なんかカッコイイ、60年代のロックを感じさせつつ新しいし、現在の音になっていて、しかも日本語でというところが興味を引いて入って行ったんです。だから、レーベルの違いなどはあまり意識していなかったです」

 

あず 「藤井さんにお伺いしたいのですが、渋谷系などについては、リスナー的な視点で音を再構築した、組み上げられた洋楽風な音楽みたいな言われ方をされると思うんですけど、そういうものが生まれていく過程を制作者として見ていて、意識された部分はあったんでしょうか?」

 

藤井 「やっぱり意識していましたね。60年代というかローファイとかのブームがあったし。昔のものをもう一回かっこよく焼き直すということって、いつでもあるんだな、って今になって思いますね。90年代だと、60年代真ん中くらいがよくて、ちょうど今・・・2013年だと80年代真ん中が・・・「君に胸キュン」いいなとか、あまちゃんいいなとか思うじゃないですか?(笑)わりとそういう、2,30年前のものが良くて、そういうのが必ず主流に対するアンチとして誰かがすごくお洒落に作り出す流れっていうのは、時代の中で変わっていかないことなのかなあと」

 

石田 「そうですね。カウンターカルチャーみたいなことですよね」

 

佐々木 「僕が気になったのは、お二人ともわりと尖った性格だったと思うんですけど・・・当時20代前半の頃は特に・・・その頃にエンジニアさんやアレンジャーさんに曲をイジられることに対する反発心みたいなものはなかったんですか?」

 

石田 「まあ、あったでしょうね。あったと思うけど、藤井さんや寺田さんに教わることの驚きの方が大きかったから」

 

藤井 「そんな教えたってのは何にもないですけどね。というか、あまりイジれるほど、駄目じゃなかったから。デモテープも凄く良くできていたし。だから、スパイラル・ライフの場合は、このデモの音楽を、ちゃんとやろうよっていうことを考えてました。普通の音になったらやばいから、この人達の場合・・・たとえば、専門的な話なんですけど、よく使われる、ギブソンとかの楽器をなるべく使わないでレコーディングしようっていうことを考えていたんですよ。音の質感を他の音楽と比べて変えなきゃこの人達は世の中にうまく出ていけないだろうなと思ったんですよね。すごい抽象的な言い方になるんですけど、歌とかギターとかに気持ちがこめられているかどうか・・・なんかこういうこと言うと変な坊さん談話みたいな感じになるんですけど、 あるちゃんとしたタイミングで出すべき音が出せているか、歌えているかっていうことを判断の基準にしていました。けど、それがデモテープでもある段階までできているから、これをどこまでファースト・アルバムで伸ばして世に出していけるんだろう、っていうことを、一番考えていましたね」

 

あず 「ありがとうございます。それでは、話も長くなりましたので、リ・ミックス盤の試聴に戻りたいと思います」

満席の観客とミュージシャンが一緒に新譜を聴くという異例な空間となった東京カルチャーカルチャー
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